11 月 09 2007

Turning Point [Part 1] / あの試合、あの言葉「第22回 転機」(前編)

Published at 8:00 PM under It remains in the mind.

近代柔道2003年9月号掲載
文 布施鋼治
 

私の人生の扉を開けたのは、
日大藤沢高への進学だった

 
 最初は柔道が嫌で嫌で仕方なかった。無理もない。父・寿男が主宰する神奈川県大和市の菅原道場で柔道を習い始めたのはわずかに4歳の頃の話だ。気がついたら、目の前に柔という名のレールが敷かれていた。楢崎教子にとって、柔道衣に袖を通すことは、ある種運命づけられたことだった。

「やっぱり年齢が年齢だから、最初は自分の意志で始めたわけではない。ただ、自然と柔道をする環境だったことは確か。私は4人兄弟なんですが、みんなやってますからね。小学校の頃には稽古に費やす時間が多くて、遊ぶ時間が少なくなるのが辛かったですね。」
 
 当然、それほど熱心に稽古に打ち込んでいたわけではなかったが、継続は力なり。中学生の頃には地元で一番になっていた。何かひとつ得意分野を持ちたいと思っていた楢崎にとって、それはちょっとした勲章だった。
 
「でもそれ以上の成績を求めようとは思わなかったですね。市の大会レベルで満足していたんですよ。」
 
 殻を破るきっかけを作ったのは、高校進学だった。日大藤沢高の柔道部監督・波多野和敬の目に止まったのだ。
 
「男子の勧誘をするために会場に足を運ばれた時に、たまたま私の試合が目に止まったらしい。いったい何が良かったんですかね?一度先生に聞いてみたいですね」
 
 当初は県立高校への進学を考えていたが、波多野に説得される形で方向転換。初めて楢崎は本気で柔道に取り組んでみようと決心した。
 
「自分が十数年やってきた柔道がどの程度通用するのか。試してみてもいいかなと思ったんですよ」
 

濃密だった高1の1年間

 
 案の定、柔道との関係は劇的に変化していく。20名の部員の中で女子は楢崎も含めて2名という環境に加え、それまで週4回だった稽古は週7回に増えた。
 
「非常に歴史のある高校なんですけど、女子の部員は私の前には数名しかいなかったと聞いています。少なくとも私が入学した時点で先輩に女子はひとりもいなかった。それだけ女子の強化が進んでいなかったんですよ。そうなると男子の中で揉まれて練習するしかない。かなりハードでしたね」
 
 反復練習と打ち込み、乱取り、それから補強をそれぞれ1時間ずつという練習システムに、1年生の時にはついていくのが精一杯だった。
 
「足が筋肉痛で駅の階段を降りられなくなったこともありました。足に力が入らないから手すりに捕まりながら転げ落ちるように降りてました(苦笑)」
 
 それでも楢崎は柔道を辞めようとは思わなかった。
「一度自分で決めた道ですからね。それに苦しい練習を続けていく中で、先生に認められたいという気持ちがあったと思う。だから途中で辞めるよりはとにかくついていこう、と。だからといって、その先に何があるかまではわからなかったですけどね」
 
 努力した甲斐はあった。翌春の高校選手権に出場した時にはいきなりベスト4に入ると同時に、全日本の強化選手に選ばれたのだ。後にも先にも、ここまで濃密な1年間を過ごした記憶はない。だからこそ楢崎は柔道家としての最大の転機は高校進学の時だと考えている。
 
「何しろ1年間で全国の強化選手の仲間入りというところまでステップアップできたわけですからね。高1の間でそこまで引き上げてくれた波多野先生にはすごく感謝していますよ。もしあそこで先生に会っていなかったら、競技者としての道は歩んでいなかったでしょう。おそらく中学を卒業した時点で辞めていた気がします」
 
 鉄は熱いうちに打て。強化合宿への参加は楢崎をさらに成長させた。
「当時は溝口(紀子)さんや江崎(史子)さんという1歳年上の先輩が活躍していました。その先輩たちと一緒に稽古をするようになると、全国レベルの人がどんな練習をしているのかを生で体験することができました」
 
 初めての同性の中だけでの練習。その雰囲気だけでも異性ばかりの高校の練習とは全然違っていた。それは楢崎にライバル意識を芽生えさせた。
 
「男性だと(こちらの技を)ある程度受けてくれるので、競り合う対象にはならないんですね。私が本気でぶつかっても相手には余力があるので、本気になって練習できないケースも出てきます。そういう環境の中で力がつく時期もあると思いますけど、練習相手が女子だとお互いが全力で向かい合うと五分五分の練習ができる。強化合宿に呼ばれるようになってからは、『ここで強くなるしかない』って思うようになりました」

1999年バーミンガム世界選手権大会で優勝した時の写真です
  

強化合宿で知った競争社会

 
 強化合宿で一番驚いたのは、そこに集まった者たちの凄まじい気迫だった。
「競り合った末に、先輩の技が一本も掛からないとなると、『もう一本お願いします』と頼んで来るんです。そうすると私も絶対に一本を取らせたくない、と思ってやり返す。そういう意地の張り合いになるわけですよ」
 
 打ち込みや乱取りだけではない。他の一般的な練習でも絶対に負けたくないという気持ちを抱くようになった。
 
「例えばランニングをする時でも、先輩たちがトップ集団を走っていくわけじゃないですか。そうすると走りの方でも負けたくないと思ってしまう。ベンチプレスでも私が60kgしか上げられない時に、ある先輩は70kgを上げていたんですよ。そんな時にはベンチプレスでも負けたくないって思いました。基礎体力でかなわない相手には、柔道でも勝てっこないですから」
 
 強化合宿は代表を決める舞台。言い換えれば、選手をふるいにかけるところだ。和気あいあいとしたムードはまったくといっていいほどなかった。
 
「中学生が社会人を破る世界だから、先輩が後輩を指導するということはありえない。相手が子供だと思って安心してアドバイスをしていたら、あとから投げられるかもしれない。同じ階級とその前後の階級の人たちは、みなライバルですから」
 
 楢崎が初めて味わった競争社会は、シビアすぎるほど大人の世界だった。
 
「いい意味で学校で柔道をやっている時には(女子が少ないということも手伝って)可愛がられていたと思うんです。でも強化選手の中に入っていったら、自分で気持ちを高めたり、コントロールしながら合宿を乗り切らなければならない。近くにライバルがいれば、弱音は吐けない。あの頃は年10回くらい合宿があって、そのほかに海外遠征もあった。そうすると親元を離れる時期がますます長くなる。高校時代に初めてヨーロッパに連れていってもらったんですけど、やっぱり試合に負けたりすると落ち込みましたね」
 
(後編に続く)
  
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